フランス語が分からないのに、フランス語吹き替えで『千と千尋の神隠し』を観た。

あれほどの世界的大ヒットを記録した『千と千尋の神隠し』について説明するのは、余りにも無粋だ。恐らく、誰もが知っているスタジオジブリの名作である。

本編を観たことがなくても内容を知っている、あるいは名前を聞いたことがある、という人がほとんどでは無いだろうか。

千と千尋の神隠し』が公開されたのは2001年らしく、当時私は小学生だった。

劇場で観たのか、あるいは金曜ロードショーで観たのかさっぱり覚えていないが、内容はしっかり把握している。当時、我が家にDVDプレイヤーは無かったにも関わらず、ちゃんとDVDまで持っている。不可解な話なのだけれど。

 

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今年の夏「一生に一度は、映画館でジブリを。」のキャッチコピーと共に、ジブリの名作が映画館で上映され話題になったのは、記憶に新しいと思う。

私も『もののけ姫』『風の谷のナウシカ』の二作を観に行った。個人的に思い入れのある(ピアノの発表会で主題歌を弾いた)作品の『ゲド戦記』も観に行きたかったのだけれど、時間が合わず仕舞いで叶わなかった。

公開されていた4作品のうち、『千と千尋の神隠し』は正直に言うと、候補的には最下位だった。熱狂的に好きな作品という訳でもなく、何よりテレビでしか観たことのない『もののけ姫』と『風の谷のナウシカ』を映画館で観ることができるという魅力には及ばなかった。

だから、『千と千尋の神隠し』は私にとって「観たことある」「まあまあ好きな」「感動する」ジブリアニメでしか無かった。

 

ところが、ひょんなことから本作品の奥深さについて気づかされる。

「なぜ千尋は、豚の中に両親がいないと分かったのか」「振り向いたらどうなるのか」「ラストシーンで髪留めが光るのはなぜか」など、次から次へと湧き上がる疑問や、知れば知るほど好きになる豆知識を話し合うのも楽しい。しかし、今日は、そういうお話ではない。

私は『千と千尋の神隠し』を通して「日本に対する異国情緒」を感じてしまった。生まれも育ちも国籍も、何をとっても「日本人である」というのに。

そしてその「異国情緒」から国境を越えて届けられるメッセージに、強い切なさを感じずにはいられなかった。

 

最近、フランス語を勉強している。

というのも、言語学習には「1,000時間の壁」というのがあり、その壁を突破すると、人は新しい言語を自由自在に扱えるようになる、という噂だ。(というかデータはあるらしい)

日本の義務教育により、例にも漏れず「机上の英語」しか使うことのできない私は、視覚に頼る言語学習ではない「実践的な言語習得」に興味があった。

全く触れてこなかった言語で1,000時間もの勉強を積んだら、本当に話せるようになるのか?気になって仕方なかったので、かねてより憧れていた「パリ」へと思いを馳せ、フランス語に挑戦することにした。

そういう訳で、毎日3時間ほどコツコツと「聴覚」を重視したフランス語学習に励んでいる。単純計算すると、11ヶ月後くらいにはマスターできるはずだ。恐らく。きっと。

以前から使用している言語学習のアプリが、フランス語にも対応していた。そこで教材を選び、リスニングメインの学習をしている。

とはいえ、赤ちゃんとは違い文字を書く術を知っているので、リスニング→ライティングの方法で、より短期間で記憶を定着させている。やはり、手を動かし文字を書くことで言葉が形を持つようになり、頭に刻まれ易くなるようだ。

 

そんな中、私はふと『千と千尋の神隠し』のDVDを思い出した。『千と千尋』には、なぜかフランス語が収録されている。副音声が英語ではなく、フランス語なのだ。そのことが、初めてDVDを手にした小学生の頃からずっと疑問だった。それを急に思い出した。

内容は理解しているし、セリフもある程度は覚えている。フランス語を学習する上で、これ以上にないほど優れた教材であることは明白だった。

 

早速、DVDを引っ張り出し、本編を再生した。

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見慣れたキャラクターが、異国の言葉を喋っている。しかも、世界一美しい言語と言われているフランス語を、だ。

何だか、奇妙な感覚がする。姉御肌でサバサバしているリン姐さんでさえ、フランス語を話すと途端に色っぽくなってしまうのだ。恐るべし、フランス語。

まだまだリスニング力は足りないし「何言ってんだろう」とモヤモヤする部分が大半を占めてはいるのだが、学習初日に比べ「フランス語特有の音」に慣れてきた気がする。

例えば、フランス語は「発音しない音」が多い。hの音もそうだし、語尾も発音しない。Chihiro(千尋)なんてhのオンパレードなものだから、私たちの想像する「チヒロ」で構えていると、全く気づかずに過ぎ去っていく。

フランス語を読めるようになるのではなく、フランス語を話せるようになるという意味でのマスターを目標にしているので、文法的なことは後回しにして、とりあえず「音に慣れる」ことから始めている。

 

毎日、10〜30分に分けて『千と千尋の神隠し』を観ているのだが、最後まで一通り観終わった時に、私はとても感動していた。つま先から手の先までゾワゾワするし、胸の奥がどうしたって痛いのだ。

なぜだろう。日本語で観ている時よりも、ずっとずっと胸が痛い。日本語で観ている時の方が明らかに内容も、文化も、描かれていない本質的なところまで理解できるはずなのに、私はこれまで何にも理解していなかったことに気づいた。

フランス語で話す彼らの言葉は全然理解できないというのに、この作品が語りかけてくる「愛や成長」の本質は、痛いほど理解できた。

 

フランス語にも訳されている事実を見れば一目瞭然だが、『千と千尋の神隠し』は世界中で大ヒットした。

日本語を学習している人に会えば「ジブリだと、千と千尋が好きかな」という話になることも多い。それくらい、世界中で愛されている物語だ。

台湾の九份という場所が舞台になったとも言われている。私も訪れたことがあるのだけれど、確かに「千と千尋だ!」と思った。

千尋が働くことになる「油屋」にそっくりな旅館が日本にもあり、それらも作品の舞台になっていると言われていることを考慮しても、やはり、台湾や中国に寄ったアジアンテイストが背景から滲み出ていると思う。

日本や韓国とは違う、同じアジアで生きているからこそ気づく、微妙な類似と相違。まあ、あくまで個人的な意見でしかないのだけれども。

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一方、神様たちが訪れる「油屋」は温泉旅館である。大浴場や宴会場のシーンでは、胸がギュッとなる懐かしさを感じるのではないだろうか。

千尋が湯婆婆の元へ向かう道中、エレベーターが宴会場のあるフロアで一旦停止するのだが、その光景に、懐かしさに似た「切なさ」を感じた。誰もいない廊下。閉まりきっている障子。障子に落ちる人の影が揺れている。部屋の中から聞こえてくる、楽しそうなどんちゃん騒ぎ。

今日は会社の忘年会。早く帰りたいのに場はお酒が進み、なかなか帰れそうにもない。お手洗いから戻り、廊下でTwitterをチェックする。ああ、戻りたくない。帰りたい。

そんな切なさだ。

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話が脱線したが、つまり全体的に中国や台湾に似た情景であるにも関わらず、宴会や温泉といった文化的描写が、私たちに「異国情緒」と「懐かしさ」を与えているのだろう。

これは決してフランス語で観ていたから、という訳ではない。この作品が与える印象は、奇妙さと懐かしさが絶妙なバランスで成り立っている。日常でもあり、非日常でもある。これより前は故郷だけど、ここから先は異国の地。本作品の鍵でもある「神隠し」は黄昏時に起こる。ここから先は夜の世界。ここから先は、死者の世界。

日本というアジアで生まれ育ち、日本というアジアを理解しているからこそ味わうことのできる「違和感および共感」を前提とした上で、本題に戻る。

私はフランス語で『千と千尋の神隠し』を観たことにより、あろうことか日本に対しても「異国情緒」を覚えてしまったのだ。

 

それは恐らく、彼らが喋るフランス語が、私と作品の中に壁を作ったから。もっと言えば、理解できない他国の要素を自ら取り入れることで、親しんでいたはずの『千と千尋の神隠し』を見慣れないものへと変えてしまった。

なぜ『千と千尋の神隠し』が日本の歴代興行収入1位を記録しているか、それはネットで検索したらまとめている人がたくさんいるので、そちらを参考にしていただきたいが、私は世界中で愛されている理由の方が気になった。

世界中の人はこの作品に、何を感じ、何を学ぶのだろう?

イギリスやフランスなど遠い国から見た「日本」は、結局アジアの中の一部でしかないだろうし、この作品から得る印象は詰まるところ「アジア」でしかないと考えている。

どう頑張ったって、深く調べたり実際に訪れたりしない限り、細かい違いなど分からないのだ。フィンランドスウェーデンの違いも、北欧家具について関心を持たなければ、一生分からないままだったかもしれない。東京の人に「広島って九州?」と訊かれたことすらある。

前述したように、この作品に散りばめられたアジアンテイストは数種類ある、というのが私の抱く印象であり認識だ。しかし、フランス語で鑑賞すると事態は一変し、私にとってこれら全てが「同一のアジア」でしかなくなる。

ああ、日本の女の子ってこんな服着てるんだ。へえ、日本人はアウディが好きなのか。ほう、日本の温泉旅館はずいぶんと豪華だな。なるほど、日本はこんなにも多くの屋台が並んでいるのか!

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母国語ではない言語を通して作品を観ることで、私自身が一旦「アジア」の外へ出ることができたのかもしれない。そしてアジアの一部である自分の中の文化的背景や状況理解が追いつかず、作品をノンバーバルな観点から素直に向き合うことができた結果、日本語で観た時よりもずっとずっと深いところで感動したということだろうか。

もちろん、言語が分かればストーリーに対する理解も格段に上がるだろう。しかしこの場合、それはさほど重要な事実でもない。なぜなら私は何度もこの作品に触れ、何度も何度もこの物語のメッセージを受け取ることができているから。母国語である日本語で。

英語だとどう表現されているのか。中国語なら?あるいは、フランス語をもっと理解できるようになったら、違った印象を受けるのだろうか?

最も理解のしやすい母国語で語られる作品に、母国語であるという油断から、本当の意味で言葉と向き合っていなかったのかもしれない。言葉が持っているもっとずっと素敵な意味合いを、深く考えずとも知ったような気になっていたのかもしれない。

容易には理解できない「不慣れな言語」だからこそ、言葉を介さなくても物語のメッセージに気づくことができた。それはアジアというフィルターの外側にいる人間、つまりは国境を越えた全ての人間にも十分届くほど、強い強いメッセージだった。

物語のラスト、千尋は無事に元の世界に戻れる。すっかり元どおりになった景色に振り向きそうになるが、トンネルを出るまでは振り向いてはいけないというハクの言葉を思い出し、踏みとどまる。

 

日常に戻れる代わりに、千尋は全て忘れるのだ。

あの不思議な世界で起きたことも、出会えた喜びも、不甲斐なさも、思い出すことの愛おしさも、全部、全部。

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思い出せないだけで、決して忘れることのない出会いが、人を強くする。

 

そんなメッセージを、世界中の人たちがそれぞれの言語で受け取り、幸せな気持ちになれたことを想像すると、私はやっぱり、胸の奥が痛くて仕方がないのだった。