【読書感想文】パリジェンヌのつくりかた

高校三年生の進路面談にて「フランスで牛乳配達をしたい」と言ったことを、はっきり覚えている。

 

進学校であるからには、大学進学をしてもらいたい。

そんな気持ちを隠せない教師は、困り顔で答えた。

 

「とりあえず、フランスに留学しやすい大学に行ってみたら?」

 

 

それから数年が経ち、フランスどころか、福岡さえ出ないでいる私が、本屋でふと足を止めた。表紙が、こちらを向いて置かれている。本には「パリジェンヌのつくりかた」と書かれていた。

 

 

パリジェンヌ。

それは、パリで生まれ育った女性のこと。

 

かつて、フランスに住みたいと強く願った私の心を、その言葉が揺さぶる。

 

 

パリジェンヌ、という言葉には不思議な魔力がある。

その言葉のうち、最も印象に残るのは「ヌ」一文字というのも、なんだか魅力的。

 

そんな憧れてやまないパリジェンヌになれる方法が、2,000円ちょっとで手に入るのなら、読んで損はない。

 

というか、読んで損をする本なんて、この世には無いとさえ思っている。

どんなに内容の薄い本でも、どんなに退屈な本でも、書き手は「書いた時点」で読み手を超えている。読む側は、読んでいる以上は永遠に「読み手」でしかない。

 

つまんない本だったな、と思うのなら、その本を超える何かを書けばいい。

それができないのなら、読んで損をしたと思えないのだから。

 

そもそも、読んで損したなんて発言は「自分には、自身の体験と照らし合わせる経験値もなければ、深めるための読解力もありません」と言っているようなものだ。

 

 

さて、期待を胸に、さっそく「パリジェンヌのつくりかた」を読んでいく。

 

程よい挿絵と、スタイリッシュな印象を受けるページの余白。

 

この「余白を良しとする文化」は、iPhoneが世に出てから一気に強まったと思う。

 

Apple製品のCMに使われるフォントや、白い画面の真ん中に置かれる、パンチの効いた一言。

 

知らず知らずのうちに、それらで構成されるものが「新しい」ものであり「かっこいい」ものである、と認識しだした。

 

 

シンプルというのは、必要なものしか残らなかった結果である。

ライフスタイルでも、シンプルさというのは忘れてはいけない要素だと思う。

 

そんな、洗練されたページのレイアウトとは打って変わって、文章の内容はとても複雑だ。なぜなら、これはパリジェンヌのつくりかただから。パリジェンヌというのは、尻尾を振る子犬ではない。 

 

筆者は4人のパリジェンヌ。職業もライフスタイルも全く違う。共通しているのは「パリジェンヌ」ということだけ。

 

 

そもそもパリジェンヌってなんだ?

読む進めるうちに疑問がわく。

 

パリで生まれ育った女性のこと。

その土地で生まれ育った女性には、その土地の特徴がよく出るのだろうか?

 

それなら、私は生粋の福岡ジェンヌだ。

生まれも育ちも、ここ、福岡。

 

福岡にはプライドがある。

だけどそれは余裕的なもので、負けん気の強いものではない。

 

たまに東京の人から田舎者扱いされるけれど、構わない。東京には、そこら中にマヤカシが存在するから。賑やかな街に、マヤカシは付き物だ。

 

だけど、福岡にはマヤカシはない。憧れるような夢もなければ、焦るような廃れもない。ただ、現実があって、その中でそれぞれが生きている。そんな街。

 

福岡=都会と言われれば、田舎の良さもあるんだと主張し、田舎と見られれば、途端に都会アピールをする。

 

都会であり、田舎である。矛盾するようだけれど、仕方ない。

 

 

パリジェンヌと福岡ジェンヌの違いはなんだろう?

 

読み進めているうちに、何度も出会う言葉に気づいた。

「母から教わった」「古くからある」「代々伝わる」などの、いわゆる「伝統」だ。

 

パリジェンヌは、その家に伝わるものを大事にする。価値があるものは、高価なものではなく、歴史があるもの。

 

ブランドものを身につけるより、おばあちゃんから受け継いだネックレスを大事にする。そういう世代を繋ぐ「伝統」を大事にする。モノだけではなく、レシピや考え方なども。

 

 

福岡ジェンヌにも、伝統精神はあるのだろうか?

 

私の父と母は、福岡にはルーツがない。父は沖縄で、母は鹿児島にゆかりがある。それが原因か分からないが、我が家にはちょっと変わった文化がある。

 

まず、年越しそば。当たり前のように、年の暮れには沖縄そばを食べていた。

それから、そうめん。薬味としてワサビ以外の選択肢を知らなかった。

 

鹿児島は関係ないけれど、母はカレーにジャガイモを入れるのを嫌う。

我が家のカレーには、ジャガイモは絶対に入らない。これからも。

 

これらの我が家文化、きっと他の家にも多く存在するはず。どんなものがあるかは知らないけれど、それらはあなたを構成してきたものの1つだ。

 

 

誰もがパリジェンヌと同じく「伝統を大事にする」精神を持っているのか?

 

 

問題はここからだ。

それらの「我が家にしかない文化」を、誇りに思っているかどうか、だ。

 

パリジェンヌの、伝統を大事にする気持ちを読みながら、気づいた。

私は間違いなく、我が家の文化に誇りを持っている。

 

 

それは、慣れとは少し違う。

 

 

「そういえば、小さい頃、カレーにジャガイモは入ってなかったんだよね〜」なんて思い出話にしてしまうつもりは、全くない。むしろ、今でもカレーにジャガイモは入れない。

 

それは、習慣ではなく、伝統だから。我が家のカレーにはジャガイモは入っていない、と認識して作るから。

 

沖縄そばの年越しそば。ワサビ一択のそうめん。習慣ではない。他との違いを認識している。これは我が家の文化だから、これが我が家だから。

 

小さい頃よく言われた「よそはよそ、うちはうち」

今思えば、この教えも、立派な伝統だった。母がその母、つまりは祖母から言われて育ったに違いない。

 

私がお母さんになったら、なんでも買ってあげる。

よその子より、寂しい思いはさせない!

 

なんて、子供ながらに思っていたけれど、今となっては断然「よそはよそ、うちはうち」なのだから、伝統というのは根強い。

 

 

パリジェンヌだって、努力する

なんだ、パリジェンヌも福岡ジェンヌも、対して変わらないじゃないか。

本を読み終えた頃には、そう思うようになっていた。

 

中でも、いちばん印象に残ったのは「パーフェクトな身体ではなくても、その身体でベストを尽くすしかないのだ」という一文。

 

 

憧れのパリジェンヌになりたくてこの本を手にした私に、衝撃が走る。

 

そうか、パリジェンヌが美しいのは、パリにいるからじゃないんだ。

パリにいる自分を、愛しているからなんだ。

 

私は無い物ねだりな性格なので、〇〇になる方法という検索をよくかける。(現に、パリジェンヌになろうとしてこの本を買っているわけだが)

 

あるいは、可愛い洋服を雑誌で見かけても「でもこれは、モデルさんが可愛いから似合うのであって…」なんて結局あきらめてしまう。

 

どうやらそれらは、自分を最も遠ざける行為だったみたい。

 

憧れの自分に近くには、まず、自分と向き合うことが大事だ。

足りないものを補うよりも、持っているものでどうにかしてみる。

 

そんな努力を繰り返す前に、あれになりたい、これになりたい。そんなのは、間違っていたらしい。

 

今の自分をまず、愛してみよう。

そう思った時、この面倒な性格も少しは愛せそうな気がしてきた。

 

 

変わり者でありたいと同時に、一般的でありたい。

冒険していたいと同時に、安定もしていたい。

努力していたいと同時に、何もせずに手に入れたい。

健康的でいたいと同時に、病弱で浮世離れしていたい。

 

 

一見、矛盾するものを抱えているけれど、仕方ない。

矛盾というのは、どちらも持っている者の特権だから。

 

どちらか片方しか持てない者には、永遠に悩むことのない問題なのだ。

 

 

結婚、遊び、仕事、恋愛。

パリジェンヌは、それらを定義しない。

いつだって「自分のやり方だけが、自分のやり方」だ。

 

パリジェンヌのように美しく、強く、それでいて自然体でいるということは、自分を疑わず、自分に忠実に生きるということ。

 

そんな生き方を手にするために、まずは自分だけのルールを作るところから、はじめてみようかな。

 

▽▽ パリジェンヌのつくりかたは、こちらから ▽▽

 


 

 

 

※これから、読み終えた本を【読書感想文】カテゴリーにて投稿していきます